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【活動体験記:陸前高田市「学びの部屋」第6期B班(2015年11月14日~15日)】

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突然だが、私の出身は岡山県倉敷市だ。 4 年前の 3 月 11 日、私はテレビで震災の被害を知った。黒い津波も、燃え上がる気仙沼も見た。しかし、それはテレビを通して知る、遠い世界の現実に他ならなかった。かつて行ったことのない東北という地で、何か大きなことが起こっている。だが自分の身の回りは、震災の前後で全く変わりはなかった。そのギャップにどこか薄気味悪い感情を抱きながら、自分は大学生になった。「いつかは東北に行って、震災の現実をこの目で見たい」そんな気持ちを抱き続けていた僕にとって、今回のボランティアへの参加は迷うべくもない当然の選択であった。 2 日目のボランティア初日。日曜日でしかも悪天候という中、生徒がなかなか集まらず、私たちは手持無沙汰になっていた。そんな我々を気遣っていただき、支援員の戸羽さんが車で津波の被害を受けた地域を案内してくださった。町全体を地上げするため、山を削り土砂を運搬する巨大なベルトコンベアーを支える無数の足場を見た。 4 階までは津波で激しく損傷されているのに 5 階は波が来なかったことで無傷で残っているアパートを見た。河口付近に位置していたため、小学校の校舎ごと波に飲み込まれて教室の壁がおもちゃのようにめくり上げられ、中の配線までちぎれて無残に風に揺れている光景も見た。見るもの全てが、震災のしの字も知らなかった私にとっては脳天を割られるほどの衝撃だった。いったいどれほどの人々が、子供が、この波に巻かれて砕けていったのか。彼らは死ぬ間際に何を思ったのか。 私は涙すら出なかった。私の理解を超えた現実がそこにはあった。 廃墟となった校舎を寒風にさらす小学校越しに見える「奇跡の一本松」も、この時ばかりは皮肉に思えて仕方なかった。  しかし、学びの部屋に来る生徒たちに私は救われた。きっと人に言えない思いをしてきたであろう子供たちは、今では大学受験生になり、ボランティアとして来ているに過ぎない私の話を笑顔で聞いてくれ、懸命に勉強に取り組んでいる。その姿はある意味で健気でもあり、同時に非常に強く私の心を打った。彼らをかわいそうだと思うのは失礼だと思った。無責任に「震災にあって苦しいね」なんて言う人の気が知れないと思った。私はできるだけ対等に彼らの話を聞き、学習支援を行うことが務めだと感じ、そのように生徒と接

【活動体験記:陸前高田市「学びの部屋」第5期(2015年10月17日~18日)】

 「学びの部屋」の支援員の方によれば、日曜日はどれだけ生徒がやってくるか読めないとのことで、結果として高田第一中には今回私達のいる間に午前と午後でそれぞれ1人ずつが来たのみであった。ボランティアに参加する側としてはできることが少ないことに対して少し寂しさを感じたが、隣の部屋では女子卓球部の生徒が元気に声を出していたし、その日はちょうどすぐそばでお祭り(?)をやっているようで、他に行く所があってやることがあるのならばいいことだろうと思った。  午前中は数学の課題をやるという生徒がいて、自分は数学に多少強いと思っていたので一緒に解いてみることになった。自分がなにを考えて問題を解いているかを伝えられたら良いな、と思っていたが一朝一夕にできるものではなかったし、また間違ったことを言ってかえって混乱させてしまうことも多く、少し申し訳ない感じで終わってしまったのが心残りであった。継続的に接することができれば私達ができることも増えるかなと思ったが、これは支援員の方にはできても私達には制度的な面も含め現状なかなか難しいことである。そのため、私達が参加することでどのようなことが期待され、そしてできるのか、ということを状況に応じてよく考えることが必要だと強く感じた。機会を見てこうした活動にまた参加したいと思っているが、今回の経験も活かしてより良い活動をしたいと思う。 (薬学系研究科・修士2年) 午前中の高田第一中での学習支援が終了し、午後は第一中と米崎中の二班に別れる。私たちは車に乗り込み、米崎中へ移動。車窓の外からは瓦礫を撤去した後の更地と、つい最近まで遠くの山を削った土を運んでいたベルトコンベアが見える。高台造成が終了し、現在解体が行われている最中だ。「想像力を働かせないと前の町並みはわからない」―ほんの 10 分程度の道程の中、高田第一中の支援員の方の言葉がずっと響いていた。  翻って、教室は普段通りの日常が広がっていた。女の子が数Ⅰ A の問題に悪戦苦闘しているのも、男の子同士が勉強しつつちょっかいを出し合っているのも。彼らが日常を既に取り戻したのか、それともそう振る舞えるくらいに気丈なのかは分からない。ともすると、教室の外には荒涼とした風景が広がっていることさえ忘れかねない 。それくらい、教室の時間はゆっくりと流れていた。 ただ少なくとも、一瞬でも彼らが普通の

【活動体験記:相馬市「寺子屋」第5期A班(2015年11月7日~8日)】

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私は、「福島の中学生が自らの将来を考えるに際して、少しでも自分が役に立つことができたら」という思いで今回の学習支援ボランティアに臨んだ。実際に勉強の質問に答えたり、難しい問題の解説をする合間に、中学生に将来の夢はあるかを聞いて回った。ある小さな女の子が小児科の医者を目指していたり、動物好きな中学2年生が看護師になりたいと行っていたり、なでしこジャパンに入りたいと語るショートヘアの女の子がいたり、また命をかけてまで自らの正義を貫き通す警察官になりたいと、ぼんやりと将来を描くのではなく、具体的にその職業に就いてどのような生き方をしたいかを語りかけてくれた中学生がいた。将来の夢に関する会話をする中で、彼らが少しでも将来の可能性を狭めてしまうような考えを持っていたらそれに対して自らの経験を話したり、また彼らの将来の夢を実現するために今行っている勉強がどれだけ大切かを伝えるようにした。 2日間の学習支援ボランティアは、私自身にとっては福島の中学生に勉強を教え、また彼らと会話することで、どのような趣味を持っているのか、どのような将来を描いているのか、どのような悩みを抱えて生きているのかなどを垣間みることができ、有意義であった。一方で、彼ら中学生にとって私たちが学習支援を行うことでどのような意義があるのか、少し疑問に思った。淡々と宿題を解く中学生に対して、大学生側が教えるべきことをひねり出すことが多く、質問を受けることが少なかったため、学習面で私たちが伝えられることが少ないように感じ、学習支援よりワークショップや座談会などを通じて将来や私たちの大学生の経験談を話すほうがより「東大生」が福島に行く意義が増すのではないかと感じた。また、その意義を増すためにも、ある程度同じ学生が継続的にボランティアに参加して生徒との関係を構築する必要もあるのかなと感じた。 (法学部・3年)

【活動体験記:相馬市「寺子屋」第4期B班(2015年10月17日~18日)】

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今回、相馬での学習支援ボランティアへの参加を希望したのは、被災地の存在を忘れている自分に気付き、何かできることがしたいと考えたからだ。実は私が復興支援ボランティアの類に参加するのは初めてではない。震災後半年を経た頃に農業支援ボランティアに参加して以来、幾度かボランティアとして被災地を訪れてきた。しかし、学業等で忙しくなったこともあり、次第に足が遠のいていった。ちなみに、時間が経つとボランティアが急減するのは一般的な傾向であるらしい。東日本大震災後 11 か月を経た時点で既にボランティアの大幅な減少を嘆く新聞記事が出ている(日本経済新聞 2012 年 2 月 11 日付朝刊)。とにかく、私はしばらく被災地のことなど忘れ日々の学業等に明け暮れていたわけであるが、 2015 年になって「そういえばボランティアに行かなくなったなあ」ということに気がついた(特に何か具体的なきっかけがあったわけではない)。「震災」や「復興」といったキーワードがあまり流行らなくなるにつれボランティアに行かなくなったというのはなんだか薄情な感じがするので、機会を見つけて復興支援ボランティアがしたいと考えていた折、今回の募集を見つけて参加することとした次第である。 さて、学習支援ボランティアの趣旨は現地の子どもたちの自立的な学習を促し、学力を向上させることで長期的に被災地の復興と発展に資するような人材になってもらうことにあると理解している。そして一般的には学力が高いであろう東大生が学習指導をし、かつ生徒に「東大生」のような具体的目標を与えることに意味があるはずだ。 そこで今回の活動を振り返るに、少なくとも私が担当した生徒たちには平素の学習の方法まで含めて指導をすることができたし、東大生との交流を通じて生徒に「大学」の具体的イメージを持ってもらえたと思う。しかし、いずれについても中途半端になってしまった感は否めない。学習指導については、数学の計算能力や英単語の知識が不十分で日常的学習がうまくいっていないように思える生徒も見受けられた。このような生徒についてはある程度継続的に指導をすることが望ましく、ごく短時間の指導の限界を感じた。また、大学生をロール・モデルとするには交流の時間が少なすぎたように思う。短い時間で交流と学習指導を同時に行おうというのだから仕方ないが、もっと生徒に将来

【活動体験記:相馬市「寺子屋」第4期A班(2015年10月3日~4日)】

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 大熊町の学習支援ボランティアに参加してから一年と少し、相馬市の学習支援ボランティアにも参加することにした。そして、同じ被災地でも状況はかなり異なるという印象を受けた。相馬市においては教える場所は仮設ではなくしっかりとした建物であり、年々生徒 が減っている状況にもない。教えている最中は特に「被災地」であると感じることはなかった。ただ、様々なタイプの子供がいるということに全国どこでも変わりはない。黙々と課題をこなす子、内気だが話しかければ色々と聞いてくれる子、全く集中せず周りにちょっかいを出す子、人懐っこく積極的に質問してくれる子など様々であった。そんな多様性あふれる子供達ではあるけれども素直という点では共通しており、そのおかげもあって最低限の手伝いはできたように思う。聞かれたことには答えてあげられたし、理解のレベルを上げることはできた。ただ、3時間ずつという限られた時間の中で、どれだけの影響を子供達に与えられただろうかという疑問は残った。子供達と盛り上がれる共通の話題が一つでもあればもっと打ち解けられただろうし、教えるにしても子供達に「面白い!」と思わせられるような教え方ができれば良かったとは思う。それでも、自分自身の今後に役立つ経験にはなったし、子供達にとってもいつかこの日のことを思い出してくれる日が来るのではないかと願っている。 (人文社会系・修士1年)